いつもならリピらない類の公演なんですが、大千秋楽がGWの最終日。
特にGWの予定も無かったので、お休み中のイベントとして
チケットが取れたら行ってもいいかな・・と思っていたら、
取れちゃった公演です(笑)。
 
アルカディア「アルカディア」森ノ宮ピロティホールD列
13:00開演、16:05終演
脚本トム・ストッパード  翻訳:小田島恒志
演出栗山民也
出演:堤真一、寺島しのぶ、井上芳雄、浦井健治、安西慎太郎、趣里、初音映莉子、山中崇、迫田孝也、塚本幸男、春海四方、神野三鈴
【あらすじ】
著名な詩人バイロンも長逗留している、19世紀の英国の豪奢な貴族の屋敷。 その屋敷の令嬢トマシナ・カヴァリー(趣里)は、住み込みの家庭教師セプティマス・ホッジ(井上芳雄)に付いて勉強中の早熟な少女。しかし、天才的な頭脳の持ち主の彼女の旺盛な好奇心には、年上のセプティマスも歯が立たない。あるとき、屋敷の庭園の手直し用の設計図に、トマシナは何の気なしにある書き込みをしてしまう。その何気ない行動が、約200年後の世界に大きな波紋を広げていくとは・・・。そして、約200年の時を経た現代。同じカヴァリー家の屋敷の同じ居間に、過去の屋敷や庭園、とりわけバイロンにまつわる謎を熱心に調べるベスト・セラー作家ハンナ(寺島しのぶ)の姿があった。そこに、バイロン研究家のバーナード(堤真一)が加わり、ライバル同士の研究競争が過熱!その争いは、カヴァリー家の末裔ヴァレンタイン(浦井健治)、クロエ(初音映莉子)兄妹を巻き込み、やがて・・・。 <ひとつの場所=同じ屋敷の同じ場所>を媒介として、繋がっていく二つの時代と人々。それぞれの時代に生きる人々のドラマは、クライマックスへと加速度を増しながら展開していく。19世紀のトマシナと家庭教師セプティマスの「歴史の中に消えていった過去」は、現代に復元されるのか?現代の研究者バーナードとハンナを取り巻く人々の思惑、そして、2人が追究する真理への情熱は? 



久しぶりの森ノ宮。JRの駅がすごく変わっていてビックリです。
確認してみたところ、最後に行ったのは2011年の「家守綺譚」でした。
えーっ、そんなに行ってなかったんだ!と自分で驚いちゃった。

開演少し前、紗幕の後ろで板付きする芳雄氏と趣里ちゃん。
芳雄氏は顔をあげて客席を真正面に見据えている時間がありました。
その後、客席に何かをを見つけた様子で、趣里ちゃんに向かって
顔で客席を指したり、何か話をしているように見えましたね。

感想は追記にて。
これも戯曲が上手く出来すぎていて、感想が書きづらいや(笑)。
上手くまとめられなくて、長文になりました。
2度観て、疑問に思っていた点や気づかなかった点も含めて
すべての答えは、舞台の中にあった、という事が分かりました。
1度目では本当に分かっていなかったなぁ・・情けない・・と
少なからず凹みましたが、2度観られて良かったです。





1度目に観たのは幕が開いてまだ間もない頃。
特に大きく演出が変わったところがあるとは思いませんでしたが、
キャストの方の演技がずいぶん変わった気がします。
“変わった”というよりも“豊かになった”という表現のほうが適切かも。
ああ・・あとは、堤さんが浦井君のマネをする所で、自分で
笑ったりしなくなっていましたね(笑)。

特に変わったという印象があったのが、セプティマス・ホッジを演じた
井上芳雄氏ですね。すごく表情が豊かになっていました。
例えばエズラ・チェイターの「エロスの寝台」を読んでいる時の
表情がすごく雄弁に心情を語っているなあ、と。
あと、バーナードとヴァレンタインは少し落ち着いた感じがします(笑)。
ヴァレンタインは少し変人ぶりが増していたかも(笑)?


舞台は19世紀初頭。英国のシドリーパークという荘園だそうですが
この“荘園”の定義が私では分からないのがちょっと痛かった。
ただ由緒ある貴族で、裕福な生活をしている・・という事は分かります。
そして、封建時代の真っただ中である事も。
レディ・クルームが娘の教育で「何も分からない状態にしておく」
事を求め、女が必要以上の知識を身につける事を望みません。


そのシドリー・パークには13歳のトマシナと言う娘がいるのだけど
とにかくこの子が早熟であり、そして天才的な閃きを持つ。
13歳でフェルマーの最終定理を証明しようとするなんて(笑)。
そしてフェルマーと同じように、書き込んだ隠遁者の絵が
後の世代で謎になる、というのは、何とも上手くできています。
でも彼女のすごいところは、科学や数学、物理の専門的知識が
ある訳じゃないのに、ある意味文学的なアプローチからアルゴリズムや
熱力学第二法則までたどり着いているという事。
“文学的”というとピンと来ないのですが、仮説立てが天才的
なのだと思います。


熱はいずれ室温と同じになり、逆に自然に暖かくなったりしない
という熱の不可逆性から、全ては平準化し、結局全てが無になる。
つまり、世界が滅ぶ事は避けられないと証明出来てしまう。
普通、ライスプディングのソースの模様からそんな仮説思いついたり
しないでしょ(笑)。でも、ヴァレンタインもコーヒーに入れた
クリームの模様で説明していて、頭のいい人は考えることが違う(笑)。

科学・数学を信じていたヴァレンタイン・カヴァリーは、トマシナの
発見を最初は認めようとしない。
“反復のアルゴリズム”や“フィードバックという手法”を使っているのは
分かってもそれは「偶然だ」と思おうとし、感情的にすらなる。
(トマシナとヴァレンタインの手法の違いはEXCELでいうところの
ゴールシークとソルバーの違いって事だよね)
あれは嫉妬なのかな、嫉妬だとしたらそれは年下の女子の才能に対する
嫉妬なのかな、それ以外にもありそうなんだけど。


現代も同じカヴァリー家が舞台。
「シドリーパークの隠遁者」について調べているハンナ。
ヴァイロンについて研究しているバーナード。

2人は同じく19世紀についての研究をしているのだけど、観客は
この2人が研究対象としている19世紀を直前に観て“答え”の多くを
知っているので、彼らが真剣に話す内容が、的外れだったり
当たっていたりすることを見守るような形になりながら、こうやって
“過去に実際に起こった事”は、ズレたり、勝手に解釈されて
伝えられていくのか・・と思います。また19世紀当時は大した事じゃ
ないのに、後世では大げさに捉えられるのが滑稽だったり。

植物学者と詩人の“エズラ”は実は同一人物だったし、
バイロンは誰とも決闘はしていなかったし。(厳密にはホッジと
エズラ・チェイターやブライス大佐は決闘する予定だったけど
ヴァイロンの騒動で、空振りに終わっていたのですが)
こうやって書いている私のブログも、私が死んだ後でも残る
可能性があり、これを読んだ人が勝手に解釈したり、想像したり
する事もあるかもしれないなぁ・・なんて思ったりもしましたしね。

トマシナが証明した“熱の不可逆性”は、“感情”に対しても言えること。
ホッジに対してトマシナの持った「後で部屋に来て」という感情は
もう後戻りできなかったのではないでしょうか。
(とはいえ、それが本当の恋愛感情だったのかは疑問だけど。)
でもホッジはやはり彼女の部屋には行かなくて、彼女は部屋に
火を放ったのではないか。あるいは事故で出火したけれど、
逃げなかったのかもしれない・・とか。
そして、それが原因で隠遁者として死ぬまで亀と生活したホッジ。
トマシナは母親から「私は17歳で結婚した。あなたも・・」と言われた
16歳の最後の日。そんな世界で生きていく事に望みが
持てなくなってしまったからかもしれない、母親みたいには
なりたくない、とも思ったかもしれない。普通に“恋愛”をしてみたいと
思っていておかしくないですから。そういう意味では、数学の天才
ではなく、普通に文学的な少女だったはずです。
文学的・・・というか、天才的な閃きがあるとはいえ、全てを論理的に
割り切るわけではなく、普通の情緒的な少女です。

やはり「17歳の誕生日」の出来事について知っている私達は、
ホッジがトマシナに向けて言う「火の始末に気を付けて。」という一言と、
あれが最初で最後になったトマシナとホッジのワルツの切なさを
理解する事になります。
あのワルツの意味は後世の人が調査してもきっとわからない事です。

某氏が書いた「ホッジによる他殺説」は、あまり私にはピンと来ないな。

19世紀にも現代にも登場したのが「亀」。
“亀は万年”という考え方が欧米でも通用するのかどうかは
分かりませんが、この2世代を繋ぐメタファーになっていました。
1幕では19世紀チームと現代チームは別々に演技をしていたのが
2幕では徐々に入り混じるような演出になり、同じ本に手をかけたり
同じカメを同時に触ったりする機会がどんどん増える。
ラスト近くにホッジとヴァレンタインがちょうど左右逆に重なって
見えるようなシーンは、思わず「ほぉ・・」と思いました。

19世紀、トマシナが描いた絵をオーガスタスが持っていき、
現代でガスが持ってくる、というのも、時代を繋ぐという意味で
とても意味がある演出です。
オーガスタスとガスは同じ役者が二役で演じる、という
脚本の指定があったようですが、なるほどねぇ・・と思います。

この「亀は欧米でも長寿の象徴なのか」と言う疑問もですが
荘園や、庭園についてなど、知っていたらもっと面白いはず。
あのバーナードが「ナイチンゲール」という名前なのも面白いけど
クロエが彼の事を「ピーコック」と名付けたとか、英語がネイティブ
ではないと、やはりピンとこないですから。
翻訳劇を観るときの限界を感じてしまいますね、やはり。

ラスト、明けの明星(厳密には金星かどうかは分からないけど)が
輝く空。いつかはこの星の輝きも無くなってしまうかもしれない。
でも、今輝いて見える事には違いないんだ、なんてふと思った終演。
東京で観た時よりも2〜3回カーテンコールが多かったですね、
さすがに大千秋楽でしたし。

東宝μではないので、特別な挨拶とかはありませんでしたが。

完璧に分かった、とは、とてもじゃないけど言えませんが、
二度観て、とってもスッキリした感じ。
伏線も含めて脚本に全く無駄がなく、本当に面白い作品でした。