これは2011年に初演を迎えた舞台で、私も観に行っています
それが再演。基本的に、ストプレは余程の事が無いと再演を観ない
(というか観たいと思わない)私ですが、イキウメだけは別格です。

太陽「太陽」ABCホール A列(2列目)
13:00開演、15:15終演
作・演出:前川知大
出演:浜田信也、安井順平、伊勢佳世、盛隆二、岩本幸子、森下創、大窪人衛、清水葉月、中村まこと

【あらすじ】 
頭脳明晰で、若く健康な肉体を長く維持できる反面、紫外線に弱く太陽光の下では活動できないノクスの登場から40年。かつて日本と呼ばれた列島には、ノクス自治区が点在し、緩やかな連合体を築いていた。ノクスになる方法も解明されたが、その適性は三十歳前後で失われる為、若者の夜への移行は歯止めが効かなくなった。次第に政治経済の中心はノクスに移り、遂には人口も逆転してしまう。旧来の人間は四国を割り当てられ多くが移住していたが、未だ故郷を離れず小さな集落で生活するものもいた。かつてノクス殺傷事件を起こしたその集落(長野八区)は、隣接するノクス自治区から経済封鎖を受け続けていた。殆どの者が集落を離脱し、残った住人はわずか20数名。10年続いた経済封鎖が終わりを告げ、再びノクスとの交流が始まった−。



初演を観た時は、「SF」のテイストが一般受けするんだろうか?と
思ったりもしましたが、小説になったり、蜷川さんが演出したり、
映画化されたり作品として色々な成長を遂げているので、
受け入れられている、という事なんでしょうね。

「関数ドミノ」の再演では、エンディングなどが大きく変わっていて
それに大変驚かされたものですが、この「太陽」はどうなっているのか。
楽しみでもあり、不安でもあり・・・。
セットは、2階建てというか高さがあるもので、信号機のオバケ
のような、ライトでできた大きな“太陽”が中央に掲げられています。 
少なくとも、セットはかなり違いますが・・・。
 
千秋楽後、劇団員の伊勢佳世さんと岩本幸子さんが退団される
という事が公表されました。
伊勢さんは最近客演も増えてきて、こんな日がくるのではないかと
何となく思っていたけれど、岩本さんまで・・・。岩本さんは俳優も
お止めになるのだとか。岩本さんの演技、好きだったんだけどな。
これでもうこのメンバーでの「太陽」を観るのは最後だったんだ、
と思うと、かなり切ないです。

 

 
結論から言えば、 初演と比較しても脚本は殆ど同じで、キャストも
同じ(客演除く)、音楽も殆ど同じでした。それだけ初演から
“完成”していた、という事なのかな、とも思います。
細かい点では、金田(安井順平)が生田草一(中村まこと)を
表現するのが「300回洗濯したプーさん」だったのが「使い古した雑巾」
になってたり、森繁が鉄彦に渡す最初の雑誌はエロ本ではなく
ファッション誌になっていました。
あと、森繁の血液を浴びた克哉が死ぬシーンまであったのは
蜷川版と同じですね、確か。

とはいっても、その中で描き方が違っているな・・と思う所も。

ノクスである曽我征治(盛隆二)は、初演よりも更にプラスチック
っぽいというか、サイボーグっぽくなっていたなぁ。
そして、更にノクスに対する嫌悪感というか、差別意識を持ち
自分でもその事を意識していた。玲子の娘である結(清水葉月)が
悩んで歩いていくその後ろ姿に、手を添えようとはするのだけど
どうしても出来ない所に、生理的な嫌悪感、その感情の根の深さを
感じてしまう。
 
奥寺純子(岩本幸子)は、初演ではもっと元気だったけど、
今回は生活に疲れた、“擦り切れた”印象の強い女性になっていた。
生田草一との恋愛感はより薄くなっている印象。 

奥寺克哉(森下創)が再び戻ってきて、森繁に大けがをさせる
原因を作り、激昂する鉄彦が「(暴力を振るっても)いいよね!?」
と純子に聞くシーン。初演は何も返事をしない事で肯定していたけど
今回は明確に頷いていたのも、大きな違い。
結がキュリオで居る事の嫌悪感を伝えるには、より明確さが
必要だったのかな・・とは思うけど、私はここは初演の方が好き。
どんなに腹立たしくても、やはり兄弟なのだから。
そして、純子は血縁を重んじるキュリオなのだから。

金田洋次の困惑というか葛藤も今回は際立ってたい気がする。
論理的に考えた場合、ノクスになるメリットは理解している。
でも同時に、ノクスの限界(出生率が上がらないなど)についても
分かっていて、「ノクスは病気」とも気付いている。
親友の娘がノクスになろう、つまり「自ら病気になろう」としていたのに、
それを止められなかった後悔があの土下座に現れていたし、
更にいうと自分自身がノクスになった事も後悔しているようでもあり。
「(感染して)死ぬよりはノクスになった方がましだ」と、一人娘が
ノクスになる事に同意し、ノクスになった娘を見て号泣する親友の
深い親心にキュリオの頃の感覚を想い出したのではないか、
だから再び朝日を浴びたい、と思ったようにも感じた私です。

「人は自分が“何を持っているか”ではなく“何を持っていないか”
について考えてしまうもの」といった話を前川さんが初演時に
なさっていた事が深く印象に残っています。
そして、それがこの作品の根底にあるとも思っています。
(ココが蜷川版とは一番違う所じゃないかと思う訳ですが)
だから、奥寺鉄彦(大窪人衛)が森繁富士太(浜田信也)の二人の
会話は最後にはいつもすれ違ってしまう。
どちらも間違ってはいないんだと思うんですけどね・・。

そんな「隣の芝生は青い」から抜けるためには、自分で決断する
とか、現状を受け入れる事が不可欠だと思うのですが、
それが出来ていない最たるものが、奥寺克哉。
「何であいつらだけがいい思いばっかりしてるんだ」とも言って
いましたが、強烈にノクスに憧れていたんだと思うんだよね。
でも年齢的にももう無理で、そんな卑屈な気持ちがあんな卑屈な
人格にしてしまったように思う。

私はこの舞台のエンディングがとても好きなんだけど、
それは、鉄彦が自分で「決断」をした瞬間だから。
そこから、森繁と鉄彦の関係も始まるように思えるんですよ
例え2人で旅に出なくても。
あの時の森繁の表情もいいし、音楽もとても好きなんだよなー
そこが再演で変わっていなくて嬉しかった。

初演で観た時のインパクトが大きかったものですから、さすがに
今回観ても初演程の衝撃はありませんでした。
個人的には結は初演の加茂ちゃんの方が好きだったかな。
でも、やっぱり色々と考えさせられる1本。
次の劇団公演は来年の春。
何かなぁ・・・。そろそろ「散歩する侵略者」やってくれないかなぁ。
「見えざるモノの生き残り」もまた観てみたい気がするんですけど
今回が再演だったから、次は新作になるのかしら?

いずれにしても、楽しみでございます♪