遠征2日めは新国立劇場から。本来なら大杉蓮さんもご出演だったはず。
蓮さんのお別れの会の翌日にこの舞台を観るのも、何だか悲しいものです。
井上芳雄氏とか浦井君とかが出ると、新国立の客層がいつもとガラっと
変わるので、忘れていると思わず現場で「あっ?」と思います、毎回(笑)。

1984「1984」新国立劇場 小劇場 B2列(2列目)
13:00開演、15:00終演
原作:ジョージ・オーウェル
脚本:ロバート・アイク、ダンカン・マクミラン
演出:小川絵梨子
出演:井上芳雄、ともさかりえ、森下能幸、宮地雅子、山口翔悟、神農直隆、武子太郎、曽我部洋士、青沼くるみ、下澤実礼、本多明鈴日
【あらすじ】
時は2050年以降の世界。人々が小説『1984』とその"附録"「ニュースピークの諸原理」について分析している。過去現在未来を物語り、やがて小説の世界へと入って行く...。1984年。1950年代に発生した核戦争によって、世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアの3つの超大国により分割統治されており、その3国間で絶え間なく戦争が繰り返されていた。オセアニアでは思想、言語、結婚等全てが統制され、市民は"ビッグブラザー"を頂点とする党によって、常に全ての行動が監視されていた。真理省の役人、ウィンストン・スミスは、ノートに自分の考えを書いて整理するという、発覚すれば死刑となる行為に手を染め、やがて党への不信感をつのらせ、同じ考えを持ったジュリアと行動をともにするようになる。ある日、ウィンストンは、高級官僚オブライエンと出会い、現体制に疑問を持っていることを告白する。すると反政府地下組織を指揮しているエマニュエル・ゴールドスタインが書いたとされる禁書を渡され、体制の裏側を知るようになる。はたして、この"附録"は誰によって、どのように書かれたのか? それは真実なのか? そして今、この世界で、何が、どれが真実なのだと、いったい誰がどうやって分かるのだろうか......。



「1984」は海外では学校の授業で読んだり、政治家がたとえ話に使ったり
この作品で使われた単語が、現実でも使われるようになったり・・と
とても影響力のある作品だという事を観終わってから知りました。
村上春樹の「1Q84」もこの作品の影響か?と思ったり。
(ただこの作品はそこまでディストピアっぽくなかった記憶がありますが)
海外では失神者が出たこともある舞台らしい、とは聞いていて
一体どんな作品なんだ・・とも思っていたんですけどね。

観終わってから原作の小説もボチボチ読み始めているんですけど、
舞台を理解する為には原作の小説ではなく、悲劇喜劇に収録されていた
戯曲を読むべきだったかもしれません(笑)。
(小説「1984」を読む人と、小説の中のパラレルワールドっぽい造りに
なっているので)




幕があくと舞台上手にあるライティングテーブルに座る男。
何かに恐ろしく怯え、やっと意を決して書き始めるウィンストン・スミス。
彼の手元が映像として映し出されるのだけれど、「4月15日」と
観劇した日が映し出されていたので、ライブ映像だったのでしょうか。
どうやら「日記を書く事」は禁じられており、「思想犯罪」として
捕らえられ、死刑にもなるような重罪の様子。

そこでパッと照明が変わって、どうやら場面転換。
「1984」の読書会が行われている様子で、この読書会の様子と「1984」
の世界が特に序盤は何度も行ったり来たりします。

1984の世界では「ビッグ・ブラザー」という絶対的支配者がおり、
3つの理念のもとに、人民を掌握しているようです。

戦争は平和である 
自由は屈従である 
無知は力である 

国は常にどこかの国と戦争を行っており、「テレスクリーン」という監視
カメラ的なもので、国民の行動は全て監視されている。子どもには
思想教育が行われて、親ですら密告をするようになって怯えて生活を
せざるを得ない。
また「ニュースピーク」という新しい言語が開発され、語彙を減らして
言葉を単純化し、複雑な概念を持つ余地を与えないようにする。
「2分間憎悪」という時間があり、ビッグ・ブラザーと対立すると言われる
ゴールドスタインに対する敵意を全力で表現し、トランス状態に陥らせる
洗脳とも思われる手法も使われている。
ウインストン・スミスの同僚たちが毎日毎日、同じセリフを繰り返し
その事に対して何の疑問も持っていない・・という様子がうすら寒い。
あと幼児期からの思想教育の怖さも・・ね。

語彙力って、大切なんだな(反省・・・)。
自分で考える事、自分の言葉で表現する事って、自分が考える以上に
とても大切な事なんだな、なんて漠然と思った瞬間です。

国の歴史や情報はビッグ・ブラザーに都合の良いように改ざんされ
恋愛も禁じられ(愛する対象はビッグ・ブラザーのみであるべきとの
考えから)国民が自ら考えたり、疑問を持ったり、発信できない仕組みに
なっているんですね。愛と言う感情や、言葉の持つ力をビッグ・ブラザーが
理解していたからこその政策なんでしょう。
恐らく、この作品が「未来を予知していたんじゃないか」と言われたり
話題にされる事が多いのは、国による不祥事(記録の改竄だったり、
隠ぺいだったり)が続いている点と符合しているからなんだろうと
思いますが、それはジョージ・オーウェルが未来を予見していた
のではなくて単純に、昔から何も変わらず人は同じことを繰り返して
いるって事なんじゃないですかね。

そんな時に突然「貴方が好きです」って小学生のように紙切れに
かかれた手紙で告発されるウィンストン・スミス。
相手は思想警察のスパイじゃないかと思っていた女性のジュリア。
結局ジュリアはスパイでも何でもなく、何度も政府の禁を破って
逢瀬を重ね、ジュリアと恋に落ちて、ウィンストン・スミス
の運命は大きく動き始める事になります。
でもジュリアは本当にただの党員だったのか。
最後までそれは明確にされないけど、私はとうとう最後まで疑ってた。
何故、党中枢でしか手に入らないコーヒーとか持ち出せたのだ?
声からジュリアが拷問されていた様子は伝わるけど、一度も姿は
見えなかったですし・・・。
何より、鼠が苦手だとスミスが話した相手はジュリアだし。

漠然と日記で自分の想いを記録しようとしていただけだったのに
政府に対する疑問が大きくなり、同じ思いの同志だと思う
オブライエンに遭い、決意を固めるウィンストン・スミス。
でもオブライエンはあくまで政府側の人間であり、結果的に
ウィンストン・スミスが炙りだされ、拷問にかけられる事に・・。

真っ白のセットに椅子だけが置かれ、セットには微妙に
血を拭った後のようなモノがあり、縛り付けられて拷問される
ウィンストン・スミス。指が落とされ(爪がはがされたのか?)
指先からは血がダラダラと流れ落ち、歯を抜かれたらしく、口から
血が流れ出す。拷問されているシーンそのものは照明が落ちていて
見えなくなっているのですが、観ていて「うぇぇ」と思うには十分。
今まで口から血糊を長したり、手が切り落とされるようなシーンは
何度も観ていて、その時には「うえ」って思う事も無かったのに
何で今回はそう感じたのかは分からないですが、恐らくそのビジュアル
からの情報だけでなく、前後の文脈からよりグロさが補強されて
しまったのでしょうね。

拷問されても、「自分のやった事は間違っていなかった」という
気持ちは持ち続けられていたのに、拷問されるうちに徐々に
「何が正しいのか」が分からずに混乱してきてしまう。
そんな時に自分の最後の心の砦となっていた「愛する人を守る」
という決意が崩れ、ジュリアを売るような事を言わされた事で
完全にウィンストン・スミスは崩壊する事になってしまう・・。
そして拷問する側はそれを分かってやっているって言うのがねー。
ああ・・まさに洗脳。怖えぇ。

読書会に出ている男性と小説の中のウィンストン・スミスの関係は
明確にはされていないけど、この男性は序盤ではあれ程混乱したり、
悩んでいたのに、ラストでは清々しいほどの穏やかな笑顔を見せ、そして
オブライエンに微笑み「ありがとう」というのが、また怖かった・・・。

井上芳雄くんは「ああ、ミュージカル俳優さんだな」というセリフ
回しをする時があって、それがストプレを見るときにたまに気になる
事があるのですが、今回はそう言った事は全くなくて、とても素直に
観る事が出来ましたね。
ただ、鼻歌程度の歌でも上手すぎちゃって、それが笑えました(笑)。

そして、大杉蓮さんの代わりに出演された神農直隆さん。
メガネの感じとかが大杉蓮さんを思い出させるような出で立ちで
敢えてそうしているのかな?と思わなくもなかったのですけど、
とても聞き取りやすい声に、優しいような冷酷なような、そんな
出で立ちが、オブライエンにピッタリでした。
拷問シーンも「拷問する」と言うよりは「真実を教えてあげる」
というスタンスで冷静に接していたのが、逆に怖かったですし。
蓮さんで拝見したかったのはやまやまですが、神農さんもとても
良かったですね。

生の舞台を観に来ているのに、映像を観るシーンが結構あって
何だかなぁと思ったりもしましたけど、それも演出の一つって
事なんでしょうね。テレスクリーンのメタファーというか。
原作はまだ読んでいる最中ですが、やはり古さは感じます。
でも舞台はその辺りは適度に近未来を感じさせるような演出になっていて
(衣裳だったり、記録改竄のプロセスだったり)工夫されているんだ
なとも思いました。原作のウィンストン・スミスはくたびれた
中年男性(奥さんとは別居中)という設定ですしね(笑)。

舞台も面白かったですけど、それ以上に「自分で考える事」や
「疑問を持つ事」の大切さを教えてもらったような気のする作品でした。
密室感の生きる作品でもあるので、新国立の小劇場ぐらいのサイズが
ちょうど良かった気もします。

1984年かぁ・・・。私はその頃中学生だったなぁ。