遠征3本目はこちら。
前方が潰してあって、C列が最前列でした。

修道女たちKERA・MAP #008
「修道女たち」本多劇場C列(最前列)
13:00開演、16:15終演
作・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ
出演:鈴木杏、緒川たまき、鈴木浩介、伊勢志摩、伊藤梨沙子、松永玲子、みのすけ、犬山イヌコ、高橋ひとみ

【あらすじ】
この修道院では毎年、村に巡礼に出ることになっている。今年もその予定なのだが、巡礼前に40名以上の修道女が亡くなっていた。国王に邪教とされ、迫害を受けていたのだ。今は、その惨事から生き残った4名と新たに2名が加わった6名のみ。村の女の子は修道女の一人が大好き。その女の子が好きな男の子は振り向いてもらえない。ドクターショッピングのように次々と新たな宗教に入信する母と、それに連れまわされる娘。新たに修道院長になった気弱なシスター、例の惨劇で恋愛関係にあった仲間の修道女と死に別れた修道女・・と、様々な人間関係がある。ただ、国王はこの宗教を弾圧しており、巡礼に出かけた村の住人達に恐ろしい選択を迫っていた。その事実を知った時、修道女たちの取った行動とは・・・。




ケラさんの舞台は物語性の強いものと、ナンセンスコメディと
タイプがまったく違うものがありますが、私は後者が苦手。
(「労働者M」とか「犯さん哉」や「社長吸血記」とか。)
その逆で、前者はとても好きなものが多いのです。
だから毎回「今度はどっちのタイプの作品だろう」とドキドキ
するのですが、今回は完全に前者らしい、と聞いていたので
とっても楽しみにしておりました。






とはいえ、今回のテーマは「宗教・信仰」かあ・・と思うと、
どんな内容になっているんだろう?と。

舞台は白塗りの修道女たちが歌(おそらく讃美歌)を歌っている
所からスタートです。プロジェクションマッピングでステンドグラス等が
投影されて、とてもキレイ。
でも、「すっげー!」と言うほど凝った映像ではなくて、割とスッと
物語に溶け込んでいくような映像の使い方だな、と思いました。
(いつもはとても、際立ってスタイリッシュだったりしますから)

生き残った修道女たち。シスター・マーロウ(伊勢志摩)は
新たに院長に就任したものの、なかなかリーダーシップが発揮できない。
それは何かと言うと、古参のシスター・ノイ(犬山イヌコ)に言いくるめ
られてしまい、どちらが院長なのだか分からない。
シスター・アニドーラ(松永玲子)は亡くなったシスター・グリシダと
恋愛関係にあったのだが、グリシダだけが命を落としている。
シスター・ダル(高橋ひとみ)は高額の献金をし、娘のシスター・ソラーニ
(伊藤梨沙子)と共に2か月ほど前に誓願を立て、修道院に入ってきた。
シスター・ソラーニはまさに「いまどきの子」らしく、禁欲の世界とは
程遠く「辞めていいですか?」とか言い出す。
43名もの修道女たちが殺されるって、異常事態。
この修道院には、そうされるような理由があるのか?本当に邪教なのか?
と思いながら観ているのだけど、それらしい所は見当たらない。
修道女とはいえ、普通の人間だなと思われる所もあるけれど、基本的には
神を敬い、禁欲的な生活を送る、敬虔な信者たちに思える。
「きっと(修道院に)帰ってこられますよ」と、まるで二度と戻って
来られない事を想定しているようなシスター達のやり取りは、私たちに
暗いものを与えて話が始まりますが、それがエンディング繋がるんですね。

巡礼先の村には、村の若者が山小屋で修道女たちを待っている。
オーネジー(鈴木杏)はちょっと理解力などに劣る所がありそうだけど
シスター・ニンニ(緒川たまき)が大好きで、その「好き」はどうやら
“LIKE”の域を出て“LOVE”に近い様子。
そんなオーネジーが大好きなテオ(鈴木浩介)。

色々なことがこの山小屋で起きていくんだけど、全体を通して思うのは
宗教って、信仰ってなんだろうって事かな。
私が無信心だから思うだけなのかもしれないのだけど。

修道女たちは自分たちが迫害されている事を理解しているので、托鉢に
行っても誰も家から出てくれない。そこまでは想定していたのだけど
国王は山小屋の利用を禁じたり、聖女の生誕地であるこの村を焼き払う
とまで言っていて、それだけこの宗教を恐れているんだろう、と思うし
宗教の持つ力を感じる。(「邪教」かどうかは置いておいて)

自分たちの村を守るために、修道女たちに「差し入れ」を差し出す村人
の気持ちは、分からなくもない。
それをわかっていて、差し入れのワインを飲む修道女たちの自己犠牲の
気持ちも、宗教的かもね、とも思う。
修道女たちには、彼女たちが説く通り「魂の列車」が迎えにきた。
でもシスター・グリシダにはお迎えが来なかったらしい。
あんなにお祈りをしたのに、真っ暗な所に居るだけだという。

何で?

一緒に観た友人がキリスト教系の学校を出ていて、この事について
話したのですが、ワインを飲んで死んだ修道女たちは自己を犠牲にして
村人たちを救って聖者になり「魂の列車」が迎えに来たのではないか、と。
「聖書に書かれているのは、一般人の話じゃないからね、聖人の話だから」。
じゃあ、「死んだら魂の列車が迎えにくるのよ」と説いているけど
普通の人にはそのお迎えが来ないという事なの?
だったら、何のために皆は祈るの?
たまたまグリシダは同性を愛していたから、罰として列車が来なかったの?

讃美歌の内容について質問しても答えられないシスター達。
修道女になりたいというオーネジーに対して、いい顔をしない
シスター・ニンニは修道女と言うものに対して思うところがあるのでは?
・・・とかね。

一方で、大好きなオーネジーに会うために、仲間を戦場で死に至らしめて
までも帰ってきたテオ。オーネジーの好きな修道女達のために、何度も
ドルフさんを殴打して殺そうとまでした。
でも、「好き」ではあってもそれは兄弟愛のようなもので、振り向いて
もらえず、変な虫に噛まれて腕から生えてきた枝は、その寂しさから
どんどんテオを食いつくし、必死に「行っちゃだめだ」と叫ぶものも
聞き入れられない。動くこともできず、死んでいくオーネジーを木として
見送る事しかできないなんて、どんだけ報われない人なんだ・・。
修道女たちと対照的過ぎて、テオの悲しさと空しさが印象的でした。

とはいえ、列車に乗っている修道女たちの満たされた顔であったり
彼女達の取った行動に想いを馳せたり、木となったテオを見ていると
観終わったときに喉の奥が「グウッ」って鳴りそうな感じがして、
とても面白かった。観終わった後で色々と考えさせられる舞台って
いいなあ・・と改めて。

ギッチョダ。