名古屋で二兎社が観られるのは久しぶりです。
豊橋公演が続いていたので。やっぱり名古屋駅前だと色々便利。

私たちは何も知らない二兎社43「私たちは何も知らない」ウィンクあいち大ホールC列
17:00開演、19:40終演
作・演出:永井愛
出演:朝倉あき、藤野涼子、大西礼芳、夏子、富山えり子、須藤蓮、枝元萌

【あらすじ】
平塚らいてうを中心とする「新しい女たち」の手で編集・執筆され、女性の覚醒を目指した『青鞜』は、創刊当初は世の中から歓迎され、らいてうは「スター」のような存在となる。しかし、彼女たちが家父長制的な家制度に反抗し、男性と対等の権利を主張するようになると、逆風やバッシングが激しくなっていく。やがて編集部内部でも様々な軋轢が起こり―



 今回の素材は「青踏」と「平塚らいてう」。
いずれも歴史の授業で習ったな・・ぐらいの知識しかない私。
何となく得意なテーマじゃないんだよね・・とは思ったし、
キャストは殆どどなたも存じ上げない方ばかりなので、若干
テンションも低めで、チケットの発券を当日まで忘れていたぐらい(笑)。
豊橋公演もあった影響か、客席後方には空席も目立っていて
ちょっと寂しい感じでの開演となりました。





「元始女性は太陽であった」で始まるラップで開幕。
おお・・ラップかよ・・。
そしてこのフレーズは雑誌『青鞜』の出発にあたって、創刊号に
平塚らいてうが寄せた発刊の辞の題名だったのだとか。このフレーズ
そのものは聞いたことがありましたけど、そうでしたか。
この舞台は「青踏」が刊行されてから数年間を描いたお話です。

ザックリ言ってしまうと、非常に「女子」を感じる作品でした。
そこはやはり、作者が女性であるという事も大きかったかもしれない。
良し悪しではなく、女性の私が観ても「ああ、あるよね・・」と思う
事が多かったのですよね。保持の平塚に対する態度も、伊藤野枝の独占欲も。

平塚らいてうと言うカリスマ的な人が居て、その人たちに惹かれて
あるいは共感して集まった数名が手探りで始めた「青踏」。
何となく・・ですけど、芸能人のファンが集まって、リーダー的な
人を中心にファンクラブを作って手探りで活動していく・・・って言う
様子とオーバーラップして見えて仕方なかったです。
(それが良いことか、悪いことなのかは分かりませんけど・・)

平塚らいてうを演じたのは朝倉あきさん。存じ上げない方ですし、
恐らく初見の方だと思いますが、知的で、綺麗で、ガツガツして
いない所なんかに育ちの良さも感じられて、女子が憧れる女性
と言う雰囲気を纏っていらっしゃいました。
平塚らいてうという人は、もっと自分の信念に対してガツガツした
人なのかと思いきや、少なくともこの舞台で観る限りでは、そういう
印象はなく、どこまでいっても「いいとこのお嬢さん」の雰囲気。

それと対照的に、とても野心家だったのが伊藤野枝(藤野涼子)かな。
ある意味平塚らいてうとは色々な意味で対照的。
華やかさがある訳ではないけど、思い込んだら猪突猛進で、視野も
狭くなってしまって、自爆するタイプ。この二人の対比が分かりやすく
そこは上手いな、と思いますね。

実際の所は分かりませんが、この作品を観る限り、青踏が長続き
出来なかったのは、目指すべきビジョンがしっかりしていない、あるいは
携わる人に共有できていなかった、という事なのではないかな。
そして、携わる人が結局は自分の生活を大切にするが故に、
(その当時の価値観を捨てきれなかったが故に)結婚したり、ライフ
ステージが変わると青踏を離れていってしまっていますから。
ちょっと「青踏」は時代を先取りしてしまっていたのかもしれないな。

でも、それぞれが男性関係は結構華やかと言うか、不倫や自殺未遂、離婚
等の経験率が高くて、「女性の自立」を好き勝手に恋愛する事と混同して
いたんじゃないのかね?という考えが頭をかすめました(笑)。

大学の卒論ではフェミニズムっぽい事を書いた事のある私ですが(笑)
「女性が、女性が」という作品は、舞台に限らず映画でも本でも
正直あまり得意ではありません。
そういう面では、この作品が得意なテーマではなかったのは確かです。
ただ、なかなか「自分の思っている事を表現できない」時代だったのに
それを打破しようとしていた女性の前向きさ、行動力には頭が下がるし
むしろ今の女性よりも活力があったかもしれない。

最後のシーンが面白かったですね。
将来起こる事を平塚らいてうが回想シーンのように聞かされていく。
「私がそんな事をする事はありません!」と叫ぶ所もあって、人の考えや
主張などはその時代や状況によって変わっていくもので、「絶対」
なんて無いんだよな・・と思わされる部分でした。